ベーグルさんのぼやき日記

生活に役立つ情報などを独断と偏見で語ります^^

絶対の今

今週のお題「チョコレート」

 

ハッピーバレンタインとゆうワードをSNSでここぞとばかり目にしています。

 

幸か不幸か私は他人様からバレンタインにチョコレートをもらったことがありません。

 

いつも、2月14日に毎年私にチョコレートを送るのは、実の母からです。

 

世間的に見て、母からもらうチョコレートは恥ずかしいと認知してしまう風潮がありますが、私は母からもらう一枚のチョコは、

人生でかけがえのない思い出になると思っています。

 

母は裏切らない。

私にとって絶対な存在なのです。

例えコンビニで買った森永の板チョコ一枚でも

私にとっては、

裏切らない一枚なのです。

 

母の存在。

両親の存在は、私にとってかけがえのない絶対なのです。

 

ではなぜ惨めになるのか??

母親から貰うのは、当たり前だと思っているからです。

 

それは、ある意味では両親との離別を考えさせられます。

 

人はいずれ死ぬ。

遅かれ早かれ必ず死ぬのです。

 

私がこの先歳老いて、両親とゆう絶対の存在から遠かることは、

何より寂しい出来事なのです。

恋人や嫁や我が子がいたとしても、やはり親との絆は絶対でしょう。

 

そして一年で一度、母から送られるチョコレートは

私にとって両親とゆう宝物との絆を感じるのです。

 

どんな形であっても、子供にとって両親は絶対な存在であると私は思います。

 

いずれくる両親との死別。

その日は必ず訪れます。

 

誰でもどこのどなたでも、

逃れることのできない両親との別れです。

 

学生時代に淡い恋愛でもしていれば、その時は楽しかったのでしょう。

中学、高校と異性から好かれるのは嬉しいでしょう。

 

しかし、人間は生きていれば歳をとります。

どんな若者でも30年経ったら必ず肉体に老いを感じるでしょう。

 

その老いの先にあるのが、死なのです。

 

だからこそ、生きている今を大切にし、

平和に感謝し、

恵まれていることに気づくことを、

私は肯定したいと考えます。

 

今の私にとって両親とはかけがえのない財産なのです。

命ある限り感謝し大切にしたい存在です。

 

いつか別れが訪れて、あの世へ旅立つ両親に

感謝と敬意を払い、

毎年もらえる母からの一枚の義理チョコは

裏切らない存在との絆を私に感じさせてくれるのです。

 

本日はあいにくの雨ですが、

雨は大地を洗ってくれていると考えるようにしています。

 

当たり前に感謝し、

今日も幸せを感じながら眠りたいと思います。

 

チョコレートとブランデー

午前11時の晴れた日に

パパは上機嫌にブランデーを嗜んでいた。

 

プロペラ機が雲を弾きながら空を通過する。

 

庭の芝生に小さいプールを作り、

日傘用のパラソルと、バカンス用の折り畳み椅子にパパは寝そべり

円卓にブランデーを乗せた。

 

パパはグラスのようなオシャレな容器ではなく

大きなマグカップにブランデーを流し込み

ストレートで飲むのが好きだ。

 

いつもは炭鉱で汗を噴き出しながら働いているパパ、

特別な日に休暇を取り

自宅に庭でビターチョコとブランデーで一杯やるのがパパは好きだ。

 

私もマーケットで新鮮なオレンジを買いに行こうと思ったけど、

まだ冷蔵庫の奥にレモンスカッシュがひと缶あったはずだから

それを取りに行った。

 

カーラジオを自作で改造し、ステレオで流しながら

パパは上機嫌に新聞を開いた。

 

平和だ、私も天気の良い日に芝生の上で甘いレモンスカッシュを飲みながら

外を見ていた。

 

青空はどこまでも続く

 

今日は特別な日

大きな犬を二匹つれた床屋のおじさんが

パパと世間話をしている。

 

やれ正義、やれ自由と、聞き耳を立てていると

そんなワードが二人の会話から聞こえる。

 

私たちは勝ったんだ!

パパはマグカップのブランデーを飲み干すと、

私の方を向いて大きな声で言った。

 

今日はお祝いだから食べたいものを食べなさいと。

 

 

家のガレージに大きなテーブルを並べて、

パパたちはお酒とカシューナッツを食べて、

祝杯をあげる。

 

正義を貫いた日を祝って。

自由が証明されたことを祝って、勝利について語る。

 

ガレージの奥から特大のステーキが運ばれ

パパたちは肉を食べる。

 

幸せは証明された。

 

どんなに理不尽でも

どんなに犠牲者が出ても

罪のない大人たちが

あの敵国で散った。

 

 

焼け落ちて業火で包まれる悪い奴らに

私たちは勝利した。

 

アメリカが勝った日。

 

自由を証明した自由の国で、

私たちは勝利を祝った。

 

太平洋の向こうでは

広島と長崎は壊滅し

東京は焼け野原となっていた。

 

私たちは祝った。

正義が勝利したことに。

 

私たちは祝った。

偉大なるアメリカの勝利に・・。

 

勝ったから正義なんだ。

 

敗北に沈んだ島国に、

暖かい朝日が差し込み始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年

お題「#この1年の変化

こんにちは。

早速ですがお題に沿ってこの一年のコロナ禍の時代

自分がどう感じたか、したためさせていただきます。

 

2019年12月頃から耳に入った新型コロナウイルスとゆう

聞き慣れな文言。

そのさきの一年に多大な影響を与え、

世界中を混沌に包みました。

 

2020年は日本人にとって

紛れもなく我慢の年になりました。

 

あらゆる娯楽から遠ざかり

我慢と不安に耐える一年でした。

 

ある意味ではこのウイルスは、

日本人の心に大切な感情を持たせてくれたと僕は思います。

 

第一に感じたのは

家族、恋人、友人。

 

愛する人に会えないことを

みなさん我慢されたと思います。

 

災害や社会問題と

何かしらの危機に直面した時、

当たり前が当たり前じゃなかったと理解させられます。

 

スーパーの棚に常に平積みされていた商品が一気になくなる。

コンビニのカップ麺が棚から全て消える。

 

日常的な当たり前が、

当たり前じゃなくなる感覚。

それに直面した時、

身近な危機を感じます。

 

当たり前じゃない。

その気持ちをしっかり持って、

日々を営んで生きてゆきたいですね。

 

きっとこの疫病が問題で無くなった先でも、

これからの時代

災害や戦争などの問題は、

日本人の生活を脅かすことになると思います。

 

未来とは見えない。

明日はどうなるかわからない。

 

そんな身近な危機に直面しながらも、

この先の時代に備え日々を大切にしたいですね。

 

当たり前を大切に。

どんなことでも失って初めてわかる有り難さがあります。

 

おそらく

今日夜布団で眠れるのも奇跡なのかもしれません。

当たり前とゆう奇跡に感謝して

大切な人や、

日々の健康を喜ぶ心を持ちたい。

 

私はこの一年でそう感じました。

 

今夜は感謝して布団で寝たいと思います。

大切な甘み

今週のお題「チョコレート」

 

甘い。

甘いとしか言いようがない。

この甘さの中には、特別な想いが込められている。

甘い、甘い想いが。

 

こんなに甘ければ

苦いコーヒーが飲みたいね。

苦い思いの中に正解があるように私は思う。

 

人生には甘味も苦味も必要だ。

 

全てが甘く輝いていた学生時代に

私は想いのこもった甘菓子をもらったことがない。

隠れていたんだ。一人、部屋の中に。

苦いコーヒーを飲みながら布団にこもり泣いた。

 

甘みが欲しかった。

人生が甘い時期に。

 

気がつけば時間は流れてしまった。

身も心も錆びついた、汚れた大人になっていた。

世界は色褪せて見え、

甘いのか苦いのかさえ忘れた。

 

雑な言い方だけど

甘くても、苦くても

生きることは楽しい。

 

生きてきたのが楽しいのは

全てが記憶になってしまったから。

過去に捨ててしまったから。

 

どんなに辛く、寂しく、苦い思いをしても

過去の記憶になった時、淡く、甘いチョコレートに変わる。

 

今日生まれた赤ん坊には人生は絶望的に長く、

今日死ぬ老人には人生はあまりにも短く感じる。

 

どんな生き方をして、どんな苦い思い出に苛まれても

自分の人生は甘いチョコレートだったと思えれば

 

人生はハッピーエンドだ。

 

いつか年老いて

終わりを迎えるその日まで

いつまでも苦い時間でいい

最後私の人生は甘かったと思いながら死ねれば。

 

 

絶望の夢の中で

生き続けることが辛い人は、世界にどれだけいるのだろうか?

死んで報われた人は、この世界にどれだけいるのだろうか?

 

子供の頃、水辺に浮かぶボウフラを見て、ゾッとした。

アスファルトに潰されたミミズを見て、ゾッとした。

 

何もかもが色褪せて世界を鈍く照らし、

今日もネズミのように建物の中に隠れる。

 

私は怯えている。

何故なのだろう?

 

私は恐怖している。

一体何に?

 

いずれ死にゆくものたちが、悲鳴をあげて電車に押し込まれる。

生まれてくる赤ん坊は、病院で泣き叫ぶ。

 

全てが私にとって暴力なんだ!

 

残酷な朝日が私を照らす。

ギラギラと微笑みを浮かべて私を照らす。

その痛みに、恐怖に、現実に、絶望する。

 

今日の朝私は生まれ、夜に死ぬ

明日の朝生まれたら、明日の夜私は死ぬ。

 

どこまでも続く螺旋階段に

私はいつまでも怯える。

世界の終わりが訪れるのを待ちながら。

 

今日も朝日に恐怖する。

 

救われるのはいつになるだろう?

報われるのはいつになるのだろう?

 

いつだって敵だらけだった。

 

ボロボロになった雑巾の中に、

私の少年時代が映し出されている。

 

幻影であり、

絶望である。

 

暖かい闇に照らされて、

車のトランクに押しこまれた。

 

この中は救いの場所。

闇の中で平和に眠る。

 

この日を待っていた。

この時間を待っていた。

 

仲間たちが眠る樹海に、私は沈められた。

 

世界の全てが見えてきた。

 

薄れゆく意識の中で

迫り来る最後の時間に

報われる終わりを前に

私に平和は訪れた。

 

何もない

何も感じない

何も見えず、何も聞こえず

何もわからず、何も感じない。

 

奇跡が私に訪れた。

 

光に

繋がった。

 

ありがとう。

本当にありがとう。

 

私は感謝している

あの日の記憶に。

 

学生の時に震えていたあの日の記憶が。

少年の頃、うだつの上がらない子供だった私に

殴られ、蹴られ、打たれたアザが、

 

うずきながら私を慰めてくれる。

 

世界は平和に包まれていた。

樹海で死んだ仲間たちとともに

暖かい光に照らされて、

亡骸を捨てて平和の中へ。

 

今日、私は死んだ。

全てを捨てて死んだ。

光に向かってまっすぐに死んだ。

 

喜んで欲しい。

私は救われたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛される方法

こんにちは。

 

突然ですがかつての中国に昔、

カイシ様とゆう禅の名僧がいらっしゃいました。

 

いつも大きな布の袋を担ぎ

太鼓腹で肥満した体だったと伝説では語り継がれます。

 

布の袋の中ではたくさんの物資や食料を入れ込み

貧しい方や食べ物に困る人に食べ物やものを与えていたと聞きます。

 

この伝説の僧侶は生きた時にたくさんのものを人々に与え

それを自身の喜びとされていました。

 

入滅された際には沢山の人に悲しまれ大地が震えたと伝説になっています。

大きな太鼓腹に、肥満した体、肩につくほどの副耳に、常に持ち歩く布の袋

このお坊様はのちに布袋和尚と呼ばれ日本では七福神の一神として祀られています。

 

自分の持っているものを人に与えるのが喜びとして生きた布袋様は誰からも愛され

中国では単独で福の神として大切に祀られています。

 

私はこの布袋様が大好きです。

 

人から好かれるのは一つの方法論と私は考えます。

 

その一つが布袋様が生きながらに実行された

布施の行で、与えることを大切にすることだと思います。

 

布施?お布施のこと?お寺に檀家さんが納める金銭のこと?

と思われるかもしれませんが布施行とは金銭を施すだけのことではありません。

 

例えば笑顔、人に笑顔や優しい言葉をかけるのは立派な布施業です。

布袋様のお像にはほとんどが、笑顔で上機嫌なお顔の像ですね。

笑顔でいる人は沢山の人に愛されます。

優しい言葉や慰めの言葉は人の心を癒します。

温かい食事を提供するでも

電車で席を譲るでも

施しはすべてお布施。布施業なのです。

 

ゆえに、タイトルにもある通り

人に愛される方法とはこの布施業の実践であると私は思います。

 

試しに職場や学校で自販機のココアを買って

ご自身の友人に笑顔で渡してみてください。

嫌な顔をされることは稀ですね。

 

人に愛されたいと思う方はまず人を愛してみてください。

その実践方法が布施業の中にあるのです。

 

与えることが楽しいと感じる人は

沢山の人に愛される人だと私は思います。

 

物欲主義ではなく実際に人のために何かしてみるのは楽しいことです。

 

あなたに素敵な日々が訪れることを祈っています。

 

合掌

言霊

突然ですが人間がこの地球を支配して

今まで数え切れないほどの発明品が作られてきました。

 

人間は電球を作りました。

人間はライターを作りました。

人間は車を作りました。

そしてインターネットやSNSも発明しました。

 

その全てを発明するために最も活躍した発明品があります。

一体なんでしょう?

 

それは

言葉です。

 

人間の文化や文明を複雑で合理的に築き上げたのは

全てその根底に言葉があります。

言葉が無ければ意思がつながりません。

情報の伝達は全て言葉で伝わります。

 

さて、言葉とは非常に可能性を持ったツールでもあります。

苦しんでいる人に、大丈夫?

と、慈悲をかけることができるのが言葉です。

必ずできると目標に向けて努力している人を勇気づけるのも言葉です。

人を叱るのも言葉です。

 

言葉には力があります。

密教寺院でも真言と言って、仏様を勧請させる聖なる言葉が

繰り返し唱えられそれが密教では祈りとされます。

 

しかし、昨今ではこの言葉の使い方が乱れて乱暴に使われているように感じさせられます。

悪口や嘘を生まれてから一度もついたことがない人はいないでしょう。

 

学校のいじめでも

暴力を振るうような、目に見えるかたちのいじめよりも

言葉による目に見えないいじめは

横行していると感じます。

 

私も学生時代言葉によくいじめを受けました。

そのほとんどが言葉によるものでした。

 

きもい!の一言でもいじめになります。

 

言葉は人を生かしもし、殺しもします。

 

芸能人に対しインターネットの掲示板で誹謗中傷の言葉が山のように書き込まれ

人を自殺に追いやることも起こっています。

 

私は紛れもなくこのケースは殺人だと考えます。

 

言論の自由が許されている限りこの世から悪口は消えないでしょう。

 

やはり言葉には力があります。

そしてその言葉は人を生かしもし、殺しもする。

 

言葉とゆうものが生まれなければ

我々人間は今も森で生活する猿だったのかもしれません。

 

言葉には力がある、可能性がある

だからこそ正しく、慈悲深く、志高く言葉を使っていきたいですね。

 

人は多くを語るを誹り

語らないものを誹り

わずかに語るものを誹る

およそこの世に誹りを受けない人間はいない

 

ゴータマ・ブッダ

 

合掌