ベーグルさんのぼやき日記

生活に役立つ情報などを独断と偏見で語ります^^

秋の夜を見上げて。

秋の月夜に酔いしれて酒を煽り夜空を見上げる

日本人は月が好きだった。

それこそ、

今の世の中では月夜を見上げることなど忘れてしまい

特別な時しか月を見ない。

 

見えないんじゃない

見ようとしないんだ。

日常の謙遜から離れて

ふと肩の荷を下ろして月を見ながら

一杯やる。

なんて贅沢な時間なんだろう。

でも

なぜ満開の桜の下でしかそれをしないのだろう?

なぜ団子を丸めて秋の十五夜以外

その明かりは特別に感じないのだろう。

 

夜を照らす満月は

いつもそこにある。

それが当たり前だからだ。

明日飯が食えずに飢えている子供達は

アジアの極東で

毎日世界中の料理に舌鼓を打つ国があるなんて考えないだろう。

僕らにとっての当たり前は

アフリカや中東の子供たちには当たり前じゃない。

 

当たり前に飯が食えることが当たり前じゃないんだ。

世界のことを学べば学ぶほど

僕から見える世界は輝きを失ってゆく。

まるで浦安の夢の国の裏舞台を見ているようだ。

 

世界は美しい。

そんな考えが子供の頃の僕には

キラキラ光る常識だった。

学校に行って勉強して遊んで、

土曜日も日曜日も

近くの神社の庭で友達と遊んだりした。

いずれ大人になって色々分かってきてしまう現実なんて考えないで。夢中で友達と遊んで、帰ったら晩御飯に母の手料理を食べた。

僕にとっての当たり前だった。

子供時代の記憶はとてもキラキラしている。

あの頃のワクワクした気持ちは最高だった。

楽しくって、楽しくって。

毎日感動して、夏休みに家族でキャンプに行った。

その頃の空はどこまでも広がっていて、その分僕の心も小さい手足を目一杯広げてどこまでも気持ちは広がった。

今では初恋の女の子の顔も忘れてしまった。

大人になって、社会で揉まれて子供の頃に見た月も

今の僕に見える月も、同じ様に輝いている。

自分が変わってしまったことが、何よりも悲しく感じるんだ。

 

最近、涙もろくなった、少しのことでも感動してしまうんだ。

こんなめんどくさい時代に

めんどくさいタイミングで生まれてきてくれた赤ん坊たちは

強く未来を生きてほしい。

人生100年

僕にできることも何かあると思う。

それを見つけるためにこれからも頑張りたい。

 

本能寺にて。

烈火の如く炎が燃え上がり

地獄の形相で焼かれた家臣たち

その中でひときわ刺す様な視線で能をまう。

時は戦国、安土桃山、乱世の終わりを告げるが如く

忠実に実行された本能寺の変

自らを第六天魔王と名乗り

この乱世にあらがわず、自身こそが正義、自身こそが神になるために

男は山のように屍を作った。

 

思えば彼の半生は戦う歴史だった。

大和の国

日出る国の神となるため生涯の全てを焼き払い

力を証明するために生きた。

戦こそ正義

戦こそ人生だった。

そんな人生は覚悟の連続だった。

覚悟して討ち取った。

覚悟して処刑した。

覚悟して友を殺めた。

だからこそ魔王なのだ。

男の悪夢はどんな時よりも激しく残酷で

異界の住人の如く駆け巡った自らの人生50年。

永遠に

永遠になるために。

自らの命を捧げた50年。

 

薄れゆく意識の中で

霞ゆく視界の中で

迫り来る業火の中で

男は光を見た。

 

けたたましい光と凄まじい威光を放ち

大きく目を開き牙を剥いている。

ドス黒い眼光で、青黒い体、そして猛々しくも美しい。

 

男にはすぐそのものの正体を理解した。

魔界の者だ。

悪魔が我を迎えにきた。

極楽浄土でも地獄でも天国でもない。

魔界の使用人。

 

能を舞い、自らの生涯が終わらんとしている今

時代の集大成である今

魔界から使者が現れた。

男は歓喜に震えた。

最後の力を振り絞り、息も絶え絶え能をまう

あわよくば、あわよくば

我こそ乱世のことわりに。

肉が焦げ 髪が燃え 焼け落ちる城の光の中。

燃えゆく体は焼け焦げて

さすれば人生50年。

 

時代に争う天下人

魔界の手先に導かれ

真の魔王の姿こそ

見据える眼球焼け焦げて

もはや命の終焉や

祝えや祝え家臣たち

真の魔王と参ろうぞ

時代に争う大うつけ

焼かれた御体は焼け焦げて

天下のうつけの大魔王

業火の所業も絶え絶えに

天上天下の大うつけ

我こそは

我こそが

第六天魔王織田信長なり

 

焼け落ちてゆく城に大の字に焼けた骨

幸せな夢の中に

朝日が差し込む大和の国。

いつも通り・・・いつも通りの朝がくる。

新しい時代を迎えんと

闇に送られた天下人。

息づいた森や山々が風に揺れる。

光の中に包まれる大和

偉大なる時代に幕を打ち

希望の朝日が覗き始めていた。

 

乱世は間も無く終わりを告げ

偉大なる神の時代が現れる。

人生50年。

乱世は

終わる。

光の元で終わる。

 

新しい時代は

新しい時代が作る。

 

 

 

 

 

 

メンタリストの炎上

こんばんは、本日は晴れましたね。

雨が降ったり止んだり繰り返すと

自律神経の管理が難しく感じます。

 

色々ある今の時期だからこそ

調子を崩さない様に努めることは

大切な自己管理に繋がりますね。

 

さて、メンタリストDAIGOさんの差別発言が結構な炎上を起こしていますが

私もYouTubeで問題の動画拝見しました。

生活保護受給者に飯を食わすぐらいなら猫を救ってほしい。

ホームレスの命は軽い。

等の発言に対し、

NPO法人然り、福祉活動などを精力的に行われているいくつかの団体から猛抗議されてると伺いました。

テレビでも大きく取り上げています。

 

そこで今回、だれしもが求める人権とゆうものについて

僕自身が考察してみたいと思います。

 

テーマ

人権

 

子供の頃よく道徳の授業なんかを小学校でも習いましたが

僕自身勉強なんて全然できないで体育の授業ばっかり楽しんでいました。

算数も国語も苦痛でしたね。

 

それでも、道徳の授業には非常に関心がありました。

中学の時、ナチス強制収容所とその歴史をビデオで拝見しました。

一人の独裁者の人種差別的思想が山ほど人を殺したと、

また、アフリカ人が奴隷として白人に支配された歴史など

一連の映像を拝見させていただきました。

 

人には生きる権利があると民主主義国家では執拗にささやかれます。

もちろん異論はありません。

 

ただ、人の命の重さとゆうものを平等に扱われた時代は

私は未だかつて、人類史では一度もない様に思います。

僕も学生時代に真言宗の信徒であることをよく学校の同級生に非難されました。

最初は小さな陰口や、宗教キモい!と通りすがりに言われたりしてましたが

次第に修行だ!と言われ顔面を殴られたり、熱したストーブの排気口を

素手で掴むことを強要されいつも軽度の火傷を負わされていました。

 

私は当時空手の黒帯を絞めていたので素人を殴るなよと、師匠によく言われていましたから

やり返すとゆう考えが出ませんでした。

結局中学を卒業するまで殴られていましたね。

 

話がそれましたが

人はそれぞれ権利を与えられている。

生存の権利

衣食住の権利

発言の自由の権利など様々な権利で守られています。

しかし、これだけ日本人が権利を主張できるのは戦後の何十年とゆう短い期間だと思います。

貧困国では身売りのように子供を出産して売ると言う話も伺ったことがあります。

 

僕が危ういと感じるのは人間には生きる権利がある反面、

死ぬ権利に対して議論されているニュースなどが増えていることです。

極度の難病で生きていくのが辛い、

生命維持装置を外して終わりを迎えたい、

ご自身の有事に延命措置を施さないでほしいなど、

 

生きることが強烈に苦痛を伴う時、人は死を望みます。

ここに人権があてられるわけです・・

 

死ぬ権利・・・

 

一言二言や一朝一夕の議論で正解が見つかるとは一切思いません。

 

おそらく、この手の権利は人間が滅びるまで議論されるのではないかと思います。

正解がないから・・。

 

世の中は楽しいと感じる人も多い中

生きるのが辛いと感じながら生きている人がたくさんいます。

私はそんな人ほど苦しくても生き抜いてほしいと感じてしまいます。

 

苦しみから解放されるのが命を終えることであっても

生まれてくることは尊いと思うからです。

 

死ぬのは一舜ですが、人が生まれてくるには九ヶ月かかります。

 

そしてどんな形であっても苦しみから解放される時

人は自由になる喜びを感じることができるからです。

 

これからの社会も大変なことはたくさん起きていくと思いますが

前を向いて笑顔でいたいですね、。

 

最後に森山直太朗さんの作曲された歌の一部を掲載させていただきます。

 

 

〜生きてることが辛いなら〜

 

生きてることが辛いなら

いっそ小さく死ねばいい

恋人と親は悲しむが三日と立てば元通り

 

生きてることが辛いなら

わめき散らして泣けばいい

夜に泣くのは赤ん坊

だけって決まりはないんだし

 

生きてることが辛いなら

くたばる喜びとっておけ!

 

私は昔この歌詞に救われました。

くたばる喜びは死ぬまでとっておきたいと思います。

 

今回もご拝読ありがとうございました。

 

それでは。。

 

スマホ脳

初夏の雰囲気も出てきて

新緑の色も強くなってきましたね。

お久しぶりです。

 

さて、最近ベストセラーとして読み継がれている書籍の中で

アンデシュ・ハンセン氏が執筆された。

スマホ脳とゆう書籍が面白いです。

 

人間の脳とは

色々な快楽ホルモンやストレスホルモンなんかを

一定の刺激に合わせて放出するみたいですね。

 

特に快楽物質であるドーパミンは依存性が高く

それゆえに依存症とゆう病につながると言われています。

 

十数年前から復旧していたスマートフォン

この媒体は快楽物質であるドーパミンを画面を見ている最中

常に放出させる働きがあるようです。

 

SNSの普及も問題視されており

TwitterInstagramの通知音がなると

音に反応して一気にドーパミンを放出させる効果があるようです。

現代では電車でもバスでも喫茶店でもファミレスでも

どこにいってもスマホの画面を凝視している人が多いようです。

 

ここで重要になるのは

スマートフォンとゆう媒体は悪ではないとゆうことを強調します。

ただ、依存傾向が強くなると病気になる人が増えると伺いました。

 

SNSのいいねの数で他者と比較してしまい

メンタルに不調を起こす若い世代が増えたのはおそらく事実です。

 

アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズ氏は

自分の息子にアイフォンを持たせなかったと伺いました。

 

意外かもしれませんがジョブズ本人もデジタルデバイスの依存勢を恐れて

かなりアナログな生活を送っていたようです。

 

世間のイメージでは彼の自宅は

液晶ディスプレイに囲まれ

常にネットワークにつながっている生活をしていたように思われていましたが

書籍の情報ではイメージとは反対の生活をされていたようですね。

 

生活を豊かにするために作られた発明が

生活を不自由にしてしまった。

 

それに気づいた専門家の中でデジタルフリーの生活を

送る方が増えているようです。

 

面白いのが新宿歌舞伎町のホスト街の有名人の中で

誰よりも初めにデジタルデトックスを行ったのは

かの有名なローランド氏だとゆうことです。

 

彼は自分の生活の中にスマホが存在することではなく

スマホ中心にご自分の生活が回っていると気づき

スマホSNSと必要のないアプリをほとんど削除して

自分がスマホを眺めている時間を強制的に制限したらしいです。

 

クレジットカードと

ジャケット一枚でスマホを自宅に放置し旅をしたらしいです。

その際仕事などの連絡用にガラケーだけ一つポケットに入れていました。

 

さすがローランドと思ってしまいます。

 

私もスマホのなかを断捨離したくて

SNSと必要のないアプリ

それと大好きなyoutubeも全て削除しました。

 

この時、驚くほど手放す喜びを感じました。

なるほどなと・・。

 

ミニマニストの方が物を捨てる喜びを楽しむのは

自由を感じるからだと思いました。

 

現代はものがありすぎて困る人がかなり増えている印象を感じます。

その時、捨てる勇気が心を自由にしてくれると私は感じました。

 

 

 

今回も拝読いただきありがとうございます。

それではまた次回。。

 

ヴィーガン襲撃

最近食に対しての考え方が大きく変わっているように感じます。

 

一部の方の中にはベジタブルの考え方が突出して

野菜以外の食品を口にしない。

 

動物性のヘアオイルを使わない。

動物の皮の製品を買わない。

 

とゆうかたちで

生き物を大切にする思考の方が一部増えていると感じます。

 

ヴィーガンの方々ですね。

 

殺さないとゆう戒律は仏教でも大切にされている考え方です。

ただ最近、ニュース記事の話題になったこととしては

ヴィーガンを名乗る女性が

魚料理のお店に入り込んで

魚を殺すなと叫び続けたことが物議を醸しています。

 

お店の店主の方は困惑しますし

楽しく食事をしていた方々の雰囲気も壊れてしまいました。

 

やはり押しつけは良くない。

 

確かに魚も殺されて料理されるのは辛いでしょう。

包丁で3枚に下ろされるのは断末魔の苦しみでしょう。

 

しかし、命は命を受け継いで生かされている。

 

大切なのは犠牲になった食材に感謝する心だと

私は思います。

 

いただきます。

ごちそうさまでした。

と、手を合わせて感謝すれば

それでいいのだと思ってしまいます。

 

何年も前に拝見した映画。

命の食べ方 

とゆうタイトルでした。

 

ドキュメンタリーの構想になっており

食肉加工現場や

ベルトコンベアで運ばれる洋食のサーモンの映像が流れていたのを思い出します。

 

動物も殺されるのは怖いのです。

 

実際食肉として締められる牛は頭を固定された段階でとても怯えて怖がっていました。

これは人間の業なのかもしれません。

 

命を奪うのは人間も動物である限り

避けて通れない営みです。

 

ライオンもシマウマを食べます。

蛇もネズミやカエルを丸呑みにします。

 

生きていく以上命を奪うのは避けてと売れません。

 

ただ、動物と人間の決定的な違いは

 

食べ残す。

 

とゆうことだと私は思います。

コンビニやスーパーで消費期限切れの食材を大量に捨てます。

発展途上国、何十万、何百万人もの

胃袋を満たす食料がゴミとして捨てられています。

 

私はヴィーガン云々よりこちらの方が根の深い問題だと思います。

食べ物ほど尊いものはありません。

 

捨てるなんて勿体無い。

それも1日に何百トンと捨てられているのだから

これこそ人間の業と感じてしまいます。

 

命に感謝して

今日も夕飯をいただこうと思います。。

 

それでは。

美味しく猿を食べる

コモドドラゴンが子供の猿を丸呑みする映像を見ました。

丸呑みにして美味しいのか?

ふと疑問が湧きましたが、

そもそも動物にとって食の楽しさとは

体や胃袋が満たされることだと思い、

人間のように塩胡椒を振って食べるなんてないわけですね。

 

世界中どこを探し回っても

食べ物に味付けしているのは人間だけです。

食事を楽しむとゆう考えを前提にすると

人間の食事は明らかに優れています。

 

最近読んだ書籍の中で

向こう10年でおそらく

スーパーやコンビニなどの

飲食を提供するサービスはなくなるとゆう話を知りました。

 

今でこそウーバーや出前館

いつでも安全で美味しい食事を提供してくれますが

この10年ぐらいで

望んだものが自宅に配達される割合は極端に増えました。

食事、買い物、書籍、生活必需品。

ほとんどポチれます。

 

一家に一台冷蔵庫なんて言葉を

昔聞きましたが

この先の未来で

一家に一店舗コンビニがある時代が来ると考えるジャーナリストがいます。

 

配達とゆう概念から

自宅に小さなコンビニがセッティングされ、買い物の際にお金を払うと自宅で欲しいものが手に入ることになるとのことです。

ジュースを買いたければ缶ジュースを自宅のコンビニに常備してもらい、必要な時にお会計をして、その場で買うとゆう・・。

定期的にメンテナンスと商品の供給が行われ、

もはや買い物は家の中でするのが当たり前の時代が来るとか。

 

どんどん人間は体を動かすとゆう行為を失っていくのではないかと不安に思います。

ですが現時点では道を歩けば自販機で炭酸飲料が買えますし。コーヒーも飲めます。

月額でウォーターサーバーをレンタルすれば

ミネラルウォーターは自宅に常備され水がなくなる頃には業者が来て

新しいタンクを供給してくれます。

 

あれ?っと思います、

現時点でもそう言ったシステムが構築されているのなら、10年後には自宅にコンビニがレンタルできていても不思議ではないような気がします。

 

情報の伝達や電子デバイスの進歩で人の生活は明らかに利便性の高いものへ変化していってます。

 

私は万人に共通する一番の楽しみは食事だと考えます。

日本は飽食国家ですから新宿や新大久保あたりを歩けば

いくらでも美味しいものを食べます。

世界中の料理が東京で食べられると思っています。

 

美味しいものを食べることそれ自体は大変幸せなことです。

食べることが嫌いな人は世界にほとんどいないと思います。

だからこそ感謝が必要だと思うのです。

 

コモドドラゴンは猿を丸呑みにします。

味付けしないで丸呑みです。

食事とは楽しいものですが、

本来の食べるとゆうことの定義は

おそらく命をいただいて飢えずに生きること

元々がそのことにあったと思います。

 

食の本質は命をいただくとゆうことだと改めて感じさせられました。

食べ物に感謝し夕食をいただきたいと思います。

 

読んでくれてありがとうございました。

進化している。

こんにちは。

 

最近私は思うのですが、

Amazonの配信サービスや、NETfreaks

大手通販サイトや、電子マネー決済、Ubereatsなどの宅配サービス、

この10年ぐらいで日本人の生活は劇的に便利になりました。

 

便利なことはいいことと私も思いますが、

手の届くところに欲しいものが運ばれてくるのは

人間の肉体的な退行が始まっているように思えます。

 

以前、ネトゲ廃神とゆう本を

面白くて熟読していた時期がありました。

 

1日10時間以上をPCの前に座り

ソーシャルゲームを楽しむ人をネトゲ廃人と言うようですが、

廃人の頂点を極めた人をネトゲの神を

廃神、と呼ばれているみたいですね。

 

ゲームとは確かに現実にできないことを疑似体験するには

最適な娯楽だと思います。

 

私もPSVRをプレイした時にその臨場感と

別の空間に移行しているような臨場感に感動と恐怖を覚えました。

 

これらに共通するのは可能性です。

 

たとえば医療の分野で扱われれば、

VRは大変な技術的躍進に貢献すると思えます。

 

プレイステーション5に使われているスペックは、

今以上に非日常を疑似体験するのには素晴らしい娯楽だと思えます。

 

私はTVゲームとゆう媒体をほとんど扱いませんし

今は所有していません。

 

人一倍、虚弱なメンタルで

依存体質な私では今の技術の進化に魅了され

ゲーム障害の診断を受ける未来が待っていると思うからです。

 

あらゆる媒体が便利になりました。

 

NETfreaksやアマゾンプライムなら月額千円で

映画、ドラマ見放題です。

 

AMAZON楽天で注文すれば大抵のものは翌日に配達されます。

 

出前館やUbereatsで、長くても1時間で美味しい料理が自宅に届きます。

 

液晶テレビHDMIで接続すればその場でハイスペックなゲームが楽しめます。

 

ものの10年もかからずに明らかに便利になりました。

それはすごい進歩です。

 

私が気になるのは、そんな便利になった現在から

さらに向こう10年、20年の進化です。

 

おそらく現在では想像のつかない

技術的進歩が訪れていると思います。

 

数年前TV番組で拝見したのは

デジタルデバイスをカプセル上にして体内に注射する映像です。

唖然としました、

自販機に腕をかざすとそれで缶ジュースが飲めるのです。

 

この先の時代では、

今ありえない奇跡が

当たり前になっている未来が想像できるように思えます。

 

考えれば考えるほど楽しいものですね。

 

10年後のスマートフォンはどう進化しているのでしょう?

楽しみです。