ベーグルさんのぼやき日記

生活に役立つ情報などを独断と偏見で語ります^^

仏性と縁起

こんにちは。

私の住んでいる横浜では雪がちらほらしています。

寒さも深まりポツポツと梅の蕾でもできて来たらいいのになぁと感じる今日この頃ですね。

 

さて、今回は密教行者から見た

縁起

についてお話しさせていただければ幸いです。

 

人間の人生の中で出会うもの全てが縁であると仏教は教えます。

そして、全てのものに対して仏性とゆうものが備わっているとも教えられます。

仏性とはその人の心の中にある仏様のことを言います。

生きてるものは全て仏なのです。

 

私の母方の祖母は人生を仏道に捧げた人でした。

ある時自宅に祀られている仏様からお言葉をいただいたと聞きました。

 

「道端に蛇が死んでいたら人間に踏まれないように傍に避けてやれ」

 

昔の北九州のあたりでは田んぼに交わって道で蛇や蛙が死んでることがよくあったようです。

祖母は死んだ蛇を必ず弔うために礼拝し蛇を田んぼの傍に弔っていました。

それを見た昔の人は、不気味だと罵り、祖母を蛇ババアと呼んだようでした。

そんな祖母は2003年に他界したのですが。

臨終を迎える最後まで家族や孫や息子、娘たちに囲まれ旅立ちました。

 

話は逸れてしまいましたが、

この仏様から祖母がいただいた言葉は

間違いなく仏縁だと私は思います。

仏様からの縁起でした。

 

そでふれあうも多少の縁

人間が出会うのも分かれるのも全てが縁だと感じます。

人が人として生まれるのも

馬が馬として生まれるのも

魚が魚に産まれるのも

全ては仏性もつ仏様なのです。

 

ゆえに真言宗の宗祖

弘法大師様は人は生きながらにして仏性を宿し

その本質をを見るための修行法を伝えられました。

 

仏教徒の最終目標は解脱です。

つまり仏様になることを最終目標としますが

凡夫が簡単にできることではありません。

ゆえに仏にすがるのです。

すでに悟りを開かれた仏様に自身が成ると観想し祈るのです。

 

この先困惑した時代がまだ続くとも言われます。

新型コロナウイルスの感染拡大も続いています。

地震や戦争などの恐れもあります。

そんな時代に生まれた私たちですから、

困った時は心の拠り所として神仏に静かに祈ってみてください。

きっと安穏とした気持ちになり

心に平和が訪れると私は思います。

 

合唱

 

 

思えば長いこと鎌倉の密教寺院で修行してきました。

仏教にまつわる宗派はたくさんございます。

その中で、三つの系統に分かれることになります。

上座部仏教大乗仏教、そして密教です。

燃え盛る護摩壇に向かって何時間もマントラと呼ばれる聖なる呪文を唱え、

真冬も水行や滝行などを通して祈ることの楽しさを味わされて来ました。

多大な仏教宗派の中でも

密教寺院の中では祈りとゆうものを大切にされて来ました。

密教とは祈りの宗教なのです。

筑波大学村上和雄教授は祈りの化学として

祈りを科学的に研究するとゆうとても興味深いことをされています。

我々密教徒にとってこれほど嬉しいことはありません。

 

祈りの力が研究されている。

新しい可能性に村上教授は挑戦されました。

 

祈るとは何も神仏に対して働きかけるものだけではありません。

例えば富士山に登山に行かれた方が

山頂のいたがきで暖かく自分たちを照らしてくれるご来光に感動し

思わず手を合わせてしまう。

 

立派な祈りです。

長い年月人生をいとなみご自身の人生に感謝し

幸せな気持ちになること

こちらも大変素晴らしい祈りです。

 

有難うの一言でも、朝のおはようでも、食前のいただきますも

全てのプラスの感情に祈りは宿ります。

 

ありがたい。ありがとうと唱えた時その人は感謝とゆう祈りをしているのです。

 

こんな話が自分の師匠から聞かされました。

数年前のある6月の日。

豪雨にさらされた川で

一人のご老人が川にはまり自身に死が迫ってくると予感したことがありました。

木の枝にしがみつき今にも流されてしまいそうな時

その老人には遠のく意識の中で川に流されないように

救いの手を差し伸べてくれた存在がございました。

ご老人に手を差し伸べたのは地元の高校生でした。

自身の命も危険にさらされてしまう大変危険な濁流に

苦しんでいる老婆を見て、いてもたってもいられなくなったのでしょう。

高校生は川に入って行ったのです。

 

幸いこの事故で被害者は現れず老婆は無事に一命を取り留めました。

この先からご老人が不思議な話をされるようになりました。

薄れゆく意識の中で手を差し伸べてくれたのは観音様だったとおっしゃるのです。

観音様が身を挺して自身を濁流から掬い上げてくれた。

そのありがたさに感謝し老婆は自宅に一体の観音様を祀り

毎日拝んだと言われています。

 

このことは新聞にも報じられ

間違いなく老婆を助けたのは高校生のようでした。

 

この話をされた師匠は

老婆は幻覚を見たわけでもなく

間違いなくこの女性を救ったのは観音様だとおっしゃいました。

 

自身を身の危険に晒し、いてもたってもいられず、助けたい!!

強い意志で川に飛び込んだ青年はその時間違いなく観音様になっていたと

おっしゃいました。

なんとしてでもご老人を助けたいと願い

川に入っていった高校生の心は

その時、間違いなく観音様になっていた。

と、お話しされました。

 

人はその時の心の在り方に応じて鬼にも仏にもなると教えます。

きっとこの話も一つの祈りなのでしょう。

 

今後とも祈りやスピリチュアル

仏教や哲学などについて深掘りした知識を提供させていただきます。

ご視聴有難うございました。

合唱

 

 

第三波

2035年の世界とゆう本を購読しました。

本の内容から察するにおそらく未来予測の本と感じるでしょう。

そのとうりです。

これからの世界で起こる変化を

断片的に紹介した書籍となっていました。

人間の科学力は不安定です。

太陽フレアの発生まで予測できるのに

人間の細胞一つ作り出すのが今もできない。

 

現在新型コロナウイルスの感染拡大第三波が訪れています。

人類の未曾有の危機ですね。

思えば去年の2月に中国の武漢市の一部から発生した

新型のウイルスの影響でこんなにも世の中が

低迷するとは今年の正月に誰が予想していたでしょうか?

 

大切な方を亡くされた人が沢山います。

志村けんさんの死去にはあまりにショッキングでした。

本日は東京の感染者数が500人を超えました。

恐ろしい数字です。

 

新宿の夜の街も自粛を要請されてましたが

各所でクラスターが起こり

未曾有の疫災となって今に至ります。

このような状況にありながらも、平穏無事で

被災する事なく安穏と暮らせている自分は運がいいです。

 

現時点では私や私の身の回りの方々は平和です。

しかし今日でも明日でもいつでも

疫病に感染するかわからないまま生活しているのは非常に不安です。

誰が思ったでしょう?

こんなことになると誰が予測していたでしょう?

 

家族を失い

大切な人を失い

職を失い

生活を失った方がどれ程いらっしゃるのでしょう。

僕はこの先の人生でも規模の大小はありますが、

人生で逆境にあうことが沢山あるでしょう。

このブログを拝見して頂いている方にも

今不幸な思いで毎日生活されている方もいると思います。

 

人生とは思い通りにならない

思い通りにならないのが人生。

 

そう考えることによって

良い意味での諦めがつきました。

 

人生において大切なことは

これはどうにもならないと諦めることが肝要だと個人的に

感じます。

仕方がないじゃないかと

今の不幸を受け入れるのが

不幸から脱出する抜け穴のように感じます。

 

コロナと共存する世界になっても仕方がない。

こればかりは起こってしまったことだからしょうがない。

 

諦めたらそこで試合終了だよと昔の漫画でありましたが。

試合を終了させることが、

コロナウイルスを含む

あらゆる災いに対しての心の対処法だと感じました。

 

なるようになるし

なるようにしかならない。

 

諦めや受け入れることは良い意味での

脱力じゃないかと感じます。

 

これからもいろいろな厄災が起こると思いますが

良い意味で受け入れていけたら生きるのが楽になると感じます。

 

でわでわ

相対性?

可愛い女の子と話していると一時間が、ほんの1分のように感じるが

熱いストーブの上に座らされれば1分間でも長く感じる。

相対性とはそうゆうものだ。

 

かの有名なアルベルト・アインシュタインの言葉ですね。

 

言わずと知れた相対性理論を掲げた

20世紀最大の天才といわれる人物です。

 

ある視点から見たものは別の視点から見たら全く別のものに見える。

そういったことはおそらく日常に満映しているのでしょう。

 

昨日生まれた赤子には世界は永遠に見えていて、

明日死ぬ老人には人生が一瞬に感じる。

 

地球から見た月はとても小さく

月から見た地球は壮大に見える。

 

この違いもある意味、相対性なのかもしれません。

ここから学べることは

人間の感じてる感覚や五感は明晰ではあるけれど

とてもいい加減なものであるとゆうことです。

 

いい加減でいいのです。

気にする必要がないことは

いい加減に自分の主観で考えて良いと私は感じます。

 

今日解明された学説も1週間後にひっくり返ったりします。

 

確かなことを期待せず

緩やかに柔軟に捉え心に溜め込まない生き方こそ

穏やかで平和なのだと感じます。

 

今日も飯がうまい。お茶がうまい。

それでは私は寝ます。

 

おやすみなさい。。

 

 

ドトールの無糖のコーヒーが好きなんですよ。

子供の頃、特に中学とか高校に通う

年頃の青年時代には

かっこいいと感じるポイントは

いかに大人に見えるかとゆう考えが主流に感じます。

今も昔も変わらない。

 

十代後半でタバコやアルコールに手を出したり

ピアスとかタトゥーとか色々興味持つじゃないですか?

 

歌がうまいからモテるとか

ビリヤードとかダーツがうまかったり

お酒とか本に詳しかったらインテリでかっこいいとゆうか・・

 

僕も以前はコーヒー飲むのかっこいいアピールを周囲にしてたんですけど

無糖じゃ無いと嫌!

無糖じゃ無いとかっこよく無い!ってゆう変なこだわりがありましたね。w

 

いずれにせよやはり人ってハードルの高いものに憧れたりするんじゃ無いですかね。

僕も無理してゲームしなくなってブラックコーヒーと本ばっか読んでました。

ただの自己満足なんですけどずっとそれでしたね。二十代後半までは。

人の見えるとこでかっこよく振る舞いたくなるんですよね。

誰得でも無いんです。あくまで自己満足。

 

でもね

気がついたらそれが当たり前のようになっていて

当たり前のように無糖のコーヒー飲みながら読書ばっかしてるおじさんになっちゃいました。

でも、カッコつけるんもいいけど

本当に好きになった時、その行為が別の意味で楽しく感じるようになりました。

 

今の背伸びはお寺ですね

お寺に行って静かに参拝して

コーヒー飲みながら電車で帰る。

 

その雰囲気を満喫するんです。

特に仕事がない日なんかは御朱印帳開いてラジオ聴きながら

御朱印の真似して自分で書くんです。

仏字とかお経とか

意味とか全然わかんないんですよ。

全くわからないけどやってると楽しくなってきて

気持ちが充実するんです。

瞑想もたまにします。

 

面白いんですよね古い伝統になってる世界って・・。

もちろん僕には友達が少ないってゆう理由もあるわけですが、

朝一に早起きして、すぐに湿らせた雑巾で部屋の雑巾掛けするんですよ。

その後窓開けてちょうど日の出くらい。

 

なんかグーっと満たされる感じがするんですよ。

 

その時間が1日で一番気持ち良かったりする。

その後、風呂場で桶で冷水をかぶるんですがこれが気持ちいい!

気がついたら気持ちが整っていく感覚がしてめっちゃ気分がいい。

今の毎日が一番楽しいですね。

 

朝4時に起きる習慣楽しいです。

 

結局かっこいいとかそうじゃないとか

こだわらなくても自分で楽しんでるのが一番

良かったりするんじゃないかなぁって思います。

それが今は一番かなぁ。。

 

さて、コーヒーのも。笑

継続は力なり

人生の大半は粘り強さで成り立っているような気がします。

 

結果を出した人

人より優れた能力の人

センスのある人

 

全て原点からのぞけばそこにあるのは

粘り強い精神だと私は思います。

 

努力した人間が報われるのではなく

努力を続けたものが報われる。

 

それが常な世の中だと私は思いました。

 

有名な話ですが

明王トーマス・エジソンは昔

電球を発明した時のインタビューで

1000回失敗したのではなく

1000回の方法を考えただけだよと仰られた様子ですね。

 

これほど努力する人の心を鼓舞するものもなかなか無いでしょう。

人生は有限です。

使える時間は限られている

 

しかし、エジソンが生きた時代と

現在の我々の生きる文明社会では

明らかな違いが検出されます。

 

今の時代に必要な言葉は

粘り強くではなく

諦めることと私は考えます。

身に余ることは諦め

自身の能力やメンタルに負担がかからない

ストレスフリーな人生が有意義だと私は思います。

 

日本人は皆さん真面目なので自殺してしまう人も多い

だからこそ粘り強く頑張って結果を出して

その後の社会的プレッシャーの中自殺される方が後を絶たないと

考えます。

 

私は言いたい。

 

夢を叶えたら幸せになれるわけではなく

結果を出したから幸せになれるわけでもなく

 

本当の幸せはご自身の中にある幸せを感じた時に訪れるものであると私は思います。

 

無理せず私自身の度量、器とゆうものをしっかり認識し

その器を壊さないよう地に足ついて生きていきたいと感じました。

 

幸せとは平和な心だよ思います。

 

今回も私の話にお付き合い頂きありがとうございます。

また次回。。

最近見たのですが

長年熟読した太宰治さんの人間失格の表紙が

リメイクされていました。

 

僕はこの小説の中で

薬漬けになり

自殺未遂も何度も繰り返した

太宰さんが最後に残した言葉。

 

ただ一切は過ぎていきます。

ただただ一切は過ぎていきます。

 

と、ゆう言葉が好きです

 

仏教の世界でとかれる言葉として

諸行無常と言う言葉があります。

難しい解釈は控えますが、

わかりやすく申すなら

形あるものいつかは無くなるとでも言いましょうか。

永遠に存在するものなどないと言うことなのです。

 

人生は有限です!

使える時間は限られています!!!

とは申しません。

 

人間どんな人生を送っても

生まれてきて、いつかは死ぬ

明日交通事故で死んでも不思議ではないわけですね。

だから薬漬けで廃人となった太宰さんは

ご自身の激動の生涯を振り返り

ただ一切は過ぎてゆくと

言葉に残していたのでしょう。

 

人間の人生は川のように感じます。

上流で生まれて河を下り

海に流れ着いて蒸発して雨となり

また川になる。

 

生まれてから死ぬまでを

繰り返し繰り返し繰り返す。

生きている以上は無情なのだと感じます。

 

だからこそ

生きると言うことは儚く

一瞬の積み重ねであると考え

一度しかない今を大切に生きていきたいものですね。

 

終わってからでは遅いのかもしれません。

大切な人を大切にし

大切な時間を大切にする。

そこには社会的成功や

優雅な人生である必要はないと感じます。

 

食べることに困らなければ、それでいいと思います。

 

今、この時間が幸せ。

風が気持ちいいとか

花が綺麗だとか

そんな感覚が私は好きです。

 

人も動物も虫も花も

命は等しく尊い

そう、感じさせていただきました。

 

過ぎ去りし少年時代を思い出しながら

今回のブログを閉じさせて頂きます。